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●2005, NO.14

ジョンP.クレッツマン、ノースウェスタン大学『コミュニティーの場としての公園』
オースティン1996年 都市公園機構年次総会用刊行物より
アメリカでも最も貧しいと思われる地区で我々が発見したことは、驚くべきことであった。学校の先生や公園管理者、地域住民の有志らで、シカゴのある地区の公園や学校周辺の4ブロック以内にある世帯へ戸別訪問を行った。すると、自分は芸術の素養がある、話が上手である、絵が上手い、漫画家、映画関係者、工芸の趣味を持っている、といった技能の持ち主が家族の中にいる世帯が、半分以上にのぼったのである。彼らに、「そうした技能や芸術的才能や教養を、公園のために発揮してくれるつもりはありませんか?」と尋ねたところ、80%以上の人たちが「もちろんいいよ。今までそんなことを頼まれたことがないから、していないだけだ。」という答えが返ってきたのであった。
これまでそれに気づかず、そのために活用もしていなかったけれど、私たちは計り知れないほどの多くの資源を持っている。人々の持つ資源(才能)は、これまでにも婦人会やスポーツ同好会、教会の集まりなどで活用されてはきている。しかし私たちは、地域生活の在り方や、どのような地域活性化を図れるのかについて、このような調査を始めたばかりである。
何年も前の話になるが、私たちは地域的つながりが薄いと考えられていた公共住宅地が圧倒的に多いエリアの調査を行ったことがある。すると2、3週間のうちに、少し調べただけで、婦人の会、少年の会、ブロッククラブ、カード同好会、歌唱同好会、スポーツ同好会など320にも上る数のグループを発見したのである。屋外で行う活動にはありとあらゆるものがある。「もう少し活動範囲を広めてみたいとは思いませんか?公園や学校につながりを持って、問題に直面している若い人たちと交わることに興味はありませんか?」と、彼らに尋ねたところ、75%の人々が「もちろん興味がある。でも、今までそんなことを頼まれたこともなかった」と、答えたのである。
常に私たちが学ぶ教訓というのは、このアメリカ中のコミュニティーには、普段人々が考えている以上のものが隠されており、人々は想像以上にそれを提供したいと思っているということである。現在、8時半から3時までだけ使われている学校は、それ以上のことができる場になるのではと、私たちは考え始めている。学校の中に隠れているありとあらゆる資源を、コミュニティーを作り上げることに活用できたら、一体どんなことができるのであろうか?
私たちは、何を目指せばよいのだろうか?市民一人一人の役割りについて、本当に認識を改めなければならないのではないかと考えている。言語も行動様式も変化しつつある。その変化の中に公園が果たすものがあるはずである。公園という場がその変化の中に介在しなければならないのだと思う。できることは沢山ある。疎外感や空虚さを感じている人々は、何かを吸収することが必要だろう。一般に「お客さん」「得意先」「消費者」と呼ばれる人々も、空虚さを感じる人々に含まれるのかもしれない。
疎外感を打ち消すための言語や行動様式を作り出すのが何かについて、私たちは強い興味を持っている。「孤独感」「疎外感」を「友人」「ご近所」「参加者」という言葉や行動様式に変化させるためには何が必要なのだろうか。わたしが最も頼りにしている好きな言葉は「シチズン(市民)」である。これは法律用語としての「シチズン(市民)」ではない。選挙はもちろん大事なことだが、選挙民としての「シチズン(市民)」でもない。ここで言っているのは、顔を見ればお互いどんな人か分かり、どんな才能を持っているかも分かり合っていて、問題の解決やコミュニティーを作り上げていくことに一緒に取り組めるような近所の人々という意味をさす。
この意味からすれば、これまで公園について語ってきたが、単なる公園という空間の中だけでの話ではなく、またコミュニティーを単純に作り上げるという話でもない。21世紀のアメリカにおいて、私たちが本当の民主主義と呼べるものを作り上げられるかどうかについての議論であると思う。これは、民主主義の将来についての話なのである。
シチズンが自分たちで共有する各種活動のメニューを持てるかどうか。
公園はそれを実現するためのスペースであり、受け皿であり、人々がお互いの才能を引き出し合うための場所なのである。 (了)
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