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●2005, NO.14

ジョンP.クレッツマン、ノースウェスタン大学『コミュニティーの場としての公園』
オースティン1996年 都市公園機構年次総会用刊行物より
我々は彼女が伝えようとしたことを考え、それを視覚的に表現しようとした。彼女の言葉にあった「サウスブロンクス」のイメージを。それは、必要事項と問題点、不足しているものを表す地図のようなものであった。ジョンソン婦人は、これは牢獄を構成しているものだね、と私に言った。

これはいつも私に“諺のガラス”を思い出させる。なぜかというと、それは半分満たされ、半分空になっているからである。皆に言いたいのは、これは正に我々と同じだということである。誰もがある程度満ち足りているし、才能や技術、知恵、知識、神の恵みを持っている。しかし同時に、我々はある一定の空虚な部分、他の人に助けてもらわなければならない部分、問題点や不足部分があることを認めざるを得ないのである。私たちが仕事をするための組織、学校、自治体、公園などを作り上げるには、皆の力を合わせるしかない。たとえ彼らも同様に不完全な存在だとしても。我々はそれぞれの持つ技術を結集するしかなく、地球上の全てのコミュニティーは、例外なくそうして作り上げられているのである。
この地図のどこが間違っているのだろうか?
この地図は、素晴しいコミュニティーを作り上げてきたジョンソン婦人やその近所の人々にそう語りかけている。彼女たちに関して唯一大切なことは、何が欠けているかということである。過去40年間のアメリカの歴史において、我々は巨大なシステムや機関を作り上げ、資金を融通し、誰の成し遂げたことかを情報発信してきた。そして、自分たちの足りないもの、問題点、必要なものが何であるかをよく理解し、それを上手に伝えられるようにもなり、必要な資金援助もしてきた。また、もしあなたが仮に、世論の中枢を担う人々やNPO、民間企業とのつながりを求めたときには、あなた方の生活の一部に必要なものと不足しているものについて世論の認識を高めることで、両者橋渡しをし結びつけてきた。それが、我々の人々の目を脇に向けさせるやり方なのである。私たちは一般によく、何を持たざるかという視点で、人々を定義してしまう。曰く、あなたは年を取りすぎていますね?または体に障害があるのですね?
このような質問は、あなたも他の障害者たちもまとめて脇に追いやってしまう。或いは逆に、あなたは若すぎる。そこで、人のごった返す駅にも似た学校に送り込み、色々なものを吸収することができたら出してあげ、それから初めてあなたへの神の恵みを認め、あなたに貢献してくれと頼むことにしよう。・・・・こんな質問ややり方をしていたら、行き詰まって物事の解決への糸口は見つからない。しかしこうしたやり方は、実は他でもない善意の人たちによって編み出され、よく採用されているものである。私自身を含めたいていの教育文化施設が往々にして行っていることである。わたしが社会科学の学者だからそんなことを言うのだろうと言った人がいる。けれども、私は今でもジョンソン婦人の言葉が忘れられない。彼女はこう言ったのである。「あなたは、私の悲惨さの量を測ろうとしているんだね。」と。
私は罪の意識を感じた。大学でも同じような地図を描き、より強固にそれを推し進め、トーンを決め、方向性を確定し、コミュニティーに関する議論を決めてしまう。我々だけではなく、公的部門の資金提供者、メディア、その他多くの人々が同様の想いを抱いている。
明るいニュースは、過去40年間アメリカ中で方針を決定してきたこの地図というものが、実は出口のないどん詰まりのもので、資金調達を失敗に終わらせ希望を失わせる方程式であるということが、ようやく人々に認識されてきたことである。
この希望のない状態から抜け出そうとしている人たちは、ジョンションさんと同じことを訴えている。つまりこの地図は、我々が何者であるかということについて第三者が考えたものであり、我々が本当に必要としているものが何なのかは我々自身にしかわからないということである。そこで、この地図をコミュニティー資産地図というものに書き換えてみたのが図2である。

コミュニティーを作りあげた証しとは、そこに住む住民一人一人が自分の持っているものを使って何がしかの貢献を地域へなせることを知ることである。これに人々が気づいたときに、どうなるか見守りたいと考えた。このシンプルな約束事を私たち全員が認識したら、どのようなことが起こるのだろうか?
第一に、公園の周囲に住む人々は全員、恩恵に与っている。その代わり、公園管理の責任者だけでなく、そこに住む人、仕事のある人もない人も、ネクタイを占めている人もそうでない人も、様々な階層の人々がその見返りとして地域に自分なりの貢献ができるはずだ。そして我々の仕事は、各人が自分なりの貢献をすることを確認することである。
公園は現実には、何も持たない人や地域へ貢献する力を持たない人たちを助けるプログラムや解決方法を制度化するための設備として、これまで用いられてきた。その概念を壊し、新しい発想を始めるにはどうしたら良いのだろうか?公園という場を周辺に住む人々からの貢献の受け皿にすることは出来ないものだろうか?技術を蓄積するための場所(skills bank)のように使えないだろうか?学習のためのネットワークの場にすることはできないだろうか?
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