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*3環境良心とは、簡単に言えば環境に対して良心を持つことで、環境良心を持った企業や人ならば、「環境保全」への意識があり、そのための行動をするはずである。 |
この激動の時期に顕れた最も刺激的な計画の1つは、ランドスケープアーキテクト、スタンリー・アボットの概念と展望から生まれている。ブルーリッジパークウエーである。ブルーリッジパークウエーは国家規模の高速道路で、全米の道路の中でもその美しい景観で知られる高速道路である。(より詳細は英語版ウィキペディアなど参照)
彼の恩師であるギルモア・クラークが、内務省がコンサルタントに支払った基本報酬の受け取りを拒否したときアボットは26才。この役目を押しつけられた当時、パークウエーはすでに設計され数年前から建設が始まっていたが、アボットのこの道路の展望は、ノースカロライナ州とテネシー州にわたって広がるグレートスモーキー山岳国立公園とヴァージニア州のシェナンドア国立公園をつなごうとするものだった。彼はその展望で、誤って濫用されたランドスケープ機能を回復させるための技術を提供する環境分析の手法を含むだけでなく、歴史的と文化景観の保存状態の重要性とともに景観地役権*4の使用についても述べている。

スタンリー・アボットの道ブルー・リッジ・パークウエー計画は、土地の自然形状に基づく。
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*4 景観地役権 scenic easements |
人力と資源の全面的努力によってドイツと日本に対する勝利を勝ち取るよう導かれた第二次世界大戦は、ルーズヴェルト政策の10年を終わらせた。そして戦後まもなくアメリカ郊外では大規模開発が始まる。
戦後世代のモビリティは、新しい住居、新しい商業中心地、新しい教育機関などに対して桁外れの需要を生みだした。そしてこれらの場所へ行くために、国家はスーパー高速道路の建設を必要とした。しかし、アメリカのこの戦後開発の初期の大部分は、自然環境とはまったくあるいはほとんどつながりがなく終わっている。なにしろ技術者は、経済性と便宜性という理由から、高速道路を張り巡らせるために都市の公園を使うことさえ勧めたのである。このような態度はアイゼンハワー政権の間は一般的だったもので、当時の政府は、水質汚染と大気汚染については、一部の例外を除いて合衆国が介入したり法律で規制する必要のない地域問題と見なしていたのである。1950年代のアメリカでは、ランドスケープアーキテクトの間にも自然に対する関心がほとんどないのはあきらかで、これは、『環境革命』(1970年)の中でマックス・ニコルソンによって指摘されている。
ランドスケープ・デザインは、初期の実績である風景墓地を生みだした後、都市公園でパークウェーというアメリカ独特の発明をし、やがてその勢いを維持することができないと判明したあと、中味は重要であっても多少局地化された。そして、多くの場合に定量的になっている。しかしイギリスでは、シルヴィア・クロウ(ランドスケープアーキテクトであり、陸軍退役軍人でもある)によって、ランドスケープアーキテクトたちがこの戦後の時代に取り入れられる環境哲学を発達させていた。アメリカより早く環境良心の萌芽がみられる。彼女は『ランドスケープの道』(1960年)と『ランドスケープの力』 (1958年)という自著の中で、新しいあるいは以前は語られなかった論点と課題に言及していて、イギリスが原子力産業を引き受ける際には、土地の適切な管理と保存の必要性について明快な要請を行っている。以下がそうである。
「我々の世代は19世紀の実業家を非難する。それは彼らが多くの景観を破壊し、我々に数千エーカーもの醜く放棄された土地という遺産を残したからなのだが、しかしこれは、我々が今の行動を止め、そして我々の力の必要性と住むのに適したランドスケープの必要性とのバランスをとる方法がわからない限り、我々自身が子孫に残すであろう荒廃と比べれば何ということもないものだ。我々の先祖は、彼らが行ったこと全てはその経済結果によって正当化されると信じていた。つまり彼らの信条は、最小限のコストで生み出すことであった。本当のコストは隠されているという事実を見誤り、世代を経て、国がダメになったり人が健康を損なわれてからその正体が明らかになるだけだった。ならばこうした悲劇が今後、はるかに大きい範囲で繰り返されないようにするならば、景観という恩恵を、今度は機械と原子力時代のこれら新しい建設計画における基本要因として、考慮に入れなければならないのである。」
1960年代という時代は多くのものが変化した時代であった。我々が関心を抱くべき変化として、ジョン・F・ケネディの選挙、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』の刊行とアルド・レオポルドの『野生のうたが聞こえる』(1949年)の重要性の再評価などがあげられるが、特にケネディの選挙は、新しいリーダーシップを連邦政府にもたらすこととなった。
ケネディは内務長官にスチュワート・ユードルを指名したが、これは合衆国の土地で何がされるべきか、また、我々自身がいかにより大きな環境保全に取り組まなければならないか、ということに対して非現実的な態度を示すことになった。ケネディ大統領のカーソンの『沈黙の春』への支持がようやく、農薬の大規模使用を制御する立法を可決するよう連邦政府を動かすこととなった。
また、土地倫理という重要な命題を提唱したアルド・レオポルドの『野生のうたが聞こえる』*5は、次第に若い教職員が教えるランドスケープアーキテクチャーの学生たちに注目されるようになり、やがて少数の教授達も「認めるようになった」。(レオポルドは農業大学で教える森林管理官であったことから、古参のメンバーが堅守する当時のASLAでは、彼の著作を重要とは見なしていなかったので、この(教授達による)「発見(承認)」は不可欠だった。
この他、年四回発行の季刊誌『ランドスケープアーキテクチャー』が1960年に編集者の職にあったグレーディー・クレイの指示で、より環境指向の社会的雑誌へと舵取りをしたことも重要である。ハーバード大学のジャーナリスト留学プログラムであるニーマンフェローとして、クレイはデイヴィッド・ウォーレスやイアン・マクハーグと共に地理決定論と環境決定論という(当時)爽快な泉の水を飲んでいた。論説、その熱狂ぶり、激励などを通して、クレイはランドスケープアーキテクトにより幅広い環境的役割を求めるよう鼓舞することができた。
早い時点で教育的アプローチ、デザイン哲学などの重要性に気づいたのもクレイである。彼にはマクハーグの著作とフィル・ルイスの環境回廊研究がランドスケープアーキテクチャーのために重要なものと分かっていた。
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*5『野生のうたが聞こえる』アルド・レオポルトは本著で、個人と個人のつながりを律する倫理を、共同社会への拡張からさらに、土壌・水・植物・動物を含む土地へと拡張することを訴える。これにより、土地と人間との関係は「被支配ー支配」の関係でなく「生物的に平等な」関係になる。これはのちの環境思想家や環境保護運動に多大な影響を与えた。環境倫理の父。 |
「職業の研究」として歴史家アル・フェインへのインタビュー (季刊『ランドスケープ・アーキテクチュア』volume 63, number 1) でクレイは、彼がこの職能を重要と考えたことに鮮烈な絵を与えている。
ランドスケープアーキテクチャーが将来を持つならば、それは公益とゴールについて多少なりとも定義可能なものの集合体でなければならない、そしてこれらは、存続して向上すべき人間社会の力を強化する環境の品質にすっかり包まれている。
1960年代がイアン・マクハーグの『デザイン・ウィズ・ネイチャー』の刊行とともに終わると(1969年)、アメリカは大学キャンパスや街でのデモ行進に直視し始める。それはベトナム戦争だけでなく、環境保護に対する政府介入不足にも抗議するデモで、ランディー・ヘスター(ASLA)のような若い教職員によって率いられたランドスケープ・アーキテクチュアの学生は、教育プログラムがそれまでの惰性から環境行動主義へと変化する流れを助け、環境良心がランドスケープアーキテクチャーの必要不可欠な一部である新しい時代の到来を告げた、1970年最初のアース・デイを成功させる主な原動力となった。
環境良心、様々な出来事やデザイン、そして、ここに記された先人たちが築きあげたランドスケープの歴史を我々は受け継いでいるのだということ、歴史には忘れてはならないものが多く潜んでいることを感じさせる。しかし、一方で、今日の多くのランドスケープアーキテクチャーのプロや学生は、環境良心はもちろん、ある意味では、思想、哲学、文化も自尊心も理想も、信念も持ち備えていない。築き上げてきた先人たちのプロセスの多くを理解できないままに現状を見過ごしている。我々の本質にも格差はあるようだ。 (了)
ランドスケープアーキテクト。ペンシルバニア大学ランドスケープ・アーキテクチュア学部の創立者。
1969年に刊行された著書『デザイン・ウィズ・ネイチャー』によって、エコロジカルプランニングの概念を示す指導者の草分けとなった。この本は現在でもランドスケープ・アーキテクチュアとプランナーの間に最も広く周知されている(日本語版あり)。マクハーグはこの書籍で地理情報システムの分野を組織化する基本的な考え方を示した。
小出兼久の本棚にも紹介文あり→こちら
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第2回:環境良心
-イアン・マクハーグの先人たち |
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