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ランドスケープアーキテクチュアの考察
第2回:環境良心ーイアン・L・マクハーグの先人たち

文:小出 兼久 2007.4.09

 

『デザイン・ウィズ・ネイチャー』の刊行で、イアン・マクハーグがアメリカのランドスケープ史に大きな足跡を残したことは紛れもない真実である。しかし、ではそれ以前のアメリカにはそうした人物が居なかったのかというと、その答えは「ノー」である。私はマクハーグの実績も哲学も先人たちなくしては生まれなかったと考える。そんなマクハーグ以前について今回は語ってみた。


1970年以前のランドスケープ・アーキテクチュアの生態学との関わり


フレデリック・ジャクソン・ターナー 19世紀後半ごろ

1893年のシカゴ米国博覧会の大喜びの空気に湧くまさにその時期を同じくして、アメリカ中を都市美化運動の熱狂へと駆り立てるきっかけとなった、歴史家フレデリック・ジャクソン・ターナー*1の「アメリカ史におけるフロンティアの意義」と題した講演が行われた。
時代の歴史家はこの演説をたいしたものでないと評価したが、その本質は、ターナーが野生の土地こそがアメリカを決定的に特徴づけるものとみなし、それと環境保存とを初めて関連づけたことにあった。ターナーのメッセージは、その時代以前に播かれていたヘンリー・デイビッド・ソローの超絶主義とフレデリック・ロー・オルムステッドの公園運動という、2つの種の栄養物となった。彼は講演の中で、アメリカ的生活の中で増加する環境保全の重要性とランドスケープアーキテクトの意識中で増加する環境の重要性について期待を表明した。

 

 

*1 フレデリック・ジャクソン・ターナーは、1893年に「アメリカ史におけるフロンティアの意義」と題した論文を発表して後世に名を残す。彼は、文明と野蛮とが接するフロンティアは、アメリカ合衆国特有の性質を生み出したと主張した。

 

 


チャールズ・エリオット 19世紀後半ごろ

ちょうどそのころ東部では、若きチャールズ・エリオットがオルムステッドの事務所を新しい方向へと導き始めていた。彼のリーダーシップのもとランドスケープデザインは、それまでの机上の神頼みの設計で直感的な結果をもたらす手法から、科学的手法へ無理のない転換をする。この環境的なプロセスは、エリオットのスタディで古典の感のあるボストン・メトロポリタンパークシステムにおける景観と植生に明白に示されている。これは彼の死の数ヶ月後に公表されたが、応用生態学と乱開発についての典型的な研究として知られている。(Charles River Basin 詳しくはウィキペディア(英語)などを参照のこと)
エリオットの手法は「オーバーレイ」を用いて環境と生態の分析をするもので、敷地境界、小径、水流、池、植生、地形、他のランドスケープ機能別に透かし絵を作り、それらを重ねて「日光写真」を作るものであった。これらの透かし絵は、日光の下ある一定期間印画紙の上に置かれ、その結果は、各々の複合的なつながりを示すように上に重ねられて全ての自然システムの決定要素を含んだ一枚のシートとなった。エリオットのオーバーレイ法は、近年のイアン・マクハーグとカール・シュタイニッツによって開発された技術に比べ原始的であるが、それによってランドスケープアーキテクトに無理のない科学的手法が提供されたのは間違いないことである。

1899年にASLA(American society of landscape architects)を組織しようとしてランドスケープアーキテクトが少数集まり、その時に、ランドスケープアーキテクトという職能は機会の戦略的出発点であると位置づけられた。それは2つの方向性を持っていた。すなわち、ランドスケープアーキテクトは、エリオットの新しく科学的な手法に続くこともできたし、ノーマン・ニュートンが大地の上の計画で『偏狭な折衷主義*2』と呼んだもの-歴史的モデルの盲目的なイミテーションの中で彷徨うこともできたのである。
で、残念なことに、ASLAメンバーのほとんどは、まさしく富裕層のために働くという誘惑を撃退できずに、簡単に後者の実践へとなだれ込んだ。新しい社会にはまだ環境良心という方法はほとんど芽生えてなかったのだが、それでも例外はあった。かつてエリオットと仕事をした経験を持つウォレン・マニングは、そのためオーバーレイ分析の技術を理解していたが、彼は、自然資源、気候、輸送、人口と経済状態についての2,000を超えるデータ源を利用した、全国計画を開発し続けた人である。

 

*2 折衷主義とは、相異なる哲学・思想体系のうちから真理あるいは長所と思われるものを抽出し、折衷・調和させて新しい体系を作り出そうとする立場(Yahoo辞典より)

 

 


フランクリン・D・ルーズヴェルトのニューデール政策など 20世紀半ば

1929年当時経済は不景気であった。それは『偏狭な折衷主義』の終焉の前兆であり、ランドスケープ・アーキテクチュアを環境良心*3という新しい方向に向けた。なぜなら国家はその自然資源を長い間開発の犠牲にしてきたが、自身が生き残るための必須要素として環境を保全または復原するべく、迅速で思い切った行動を取ることを強いられたからである。
この時期を境にランドスケープアーキテクトは、自然と人為環境の両方が機能回復するような無数の計画に関係するようになる。ランドスケープアーキテクトは、フランクリン・D・ルーズヴェルトのツリーアーミー(民間植林治水隊:Civilian Conservation Corps 略CCR. ニューデール政策で設立された機関)から土壌の保全や州立公園、国立公園の拡大にいたるまでの現場で、働くようになった。とはいえ、環境の復原(restoration)というのは、エリオットやマニングの概念を拡大解釈しただけで、なんの目新しさもないとうことは覚えておいてほしい。

 

 

*3環境良心とは、簡単に言えば環境に対して良心を持つことで、環境良心を持った企業や人ならば、「環境保全」への意識があり、そのための行動をするはずである。

 

 


スタンリー・アボットから戦後開発 スーパー高速道路 1930年〜大戦後

この激動の時期に顕れた最も刺激的な計画の1つは、ランドスケープアーキテクト、スタンリー・アボットの概念と展望から生まれている。ブルーリッジパークウエーである。ブルーリッジパークウエーは国家規模の高速道路で、全米の道路の中でもその美しい景観で知られる高速道路である。(より詳細は英語版ウィキペディアなど参照)

彼の恩師であるギルモア・クラークが、内務省がコンサルタントに支払った基本報酬の受け取りを拒否したときアボットは26才。この役目を押しつけられた当時、パークウエーはすでに設計され数年前から建設が始まっていたが、アボットのこの道路の展望は、ノースカロライナ州とテネシー州にわたって広がるグレートスモーキー山岳国立公園とヴァージニア州のシェナンドア国立公園をつなごうとするものだった。彼はその展望で、誤って濫用されたランドスケープ機能を回復させるための技術を提供する環境分析の手法を含むだけでなく、歴史的と文化景観の保存状態の重要性とともに景観地役権*4の使用についても述べている。

 

スタンリー・アボットの道ブルー・リッジ・パークウエー計画は、土地の自然形状に基づく。

 

 

*4 景観地役権 scenic easements
そもそも地役権とは、民法に定められるとおり自己の土地の便益のため他人の土地を供し得る物権である。これに景観という言葉を付けた景観地役権は、アメリカで野生生物生息地などの自然環境保全の問題と共に耳にする言葉で、それは、景観と環境政策のなかで実施する買い上げ・管理の手段である。例えば、マンションが建ちそうな場所に「景観のために○m以上の建物は建てない」という景観地役権を土地の所有者と地域住民との間で締結する・・などもできる。しかし実際にはその使用は困難と思われる。また、日本では一般には土地の資産価値を下げるものとして嫌われている。アメリカではある野生生物生息地の環境保全のために、隣接する土地の地役権や開発権を買い上げることが行われている。

 

 

 

環境に以前無関心なアメリカとそうでないイギリス

人力と資源の全面的努力によってドイツと日本に対する勝利を勝ち取るよう導かれた第二次世界大戦は、ルーズヴェルト政策の10年を終わらせた。そして戦後まもなくアメリカ郊外では大規模開発が始まる。
戦後世代のモビリティは、新しい住居、新しい商業中心地、新しい教育機関などに対して桁外れの需要を生みだした。そしてこれらの場所へ行くために、国家はスーパー高速道路の建設を必要とした。しかし、アメリカのこの戦後開発の初期の大部分は、自然環境とはまったくあるいはほとんどつながりがなく終わっている。なにしろ技術者は、経済性と便宜性という理由から、高速道路を張り巡らせるために都市の公園を使うことさえ勧めたのである。このような態度はアイゼンハワー政権の間は一般的だったもので、当時の政府は、水質汚染と大気汚染については、一部の例外を除いて合衆国が介入したり法律で規制する必要のない地域問題と見なしていたのである。1950年代のアメリカでは、ランドスケープアーキテクトの間にも自然に対する関心がほとんどないのはあきらかで、これは、『環境革命』(1970年)の中でマックス・ニコルソンによって指摘されている。

 

ランドスケープ・デザインは、初期の実績である風景墓地を生みだした後、都市公園でパークウェーというアメリカ独特の発明をし、やがてその勢いを維持することができないと判明したあと、中味は重要であっても多少局地化された。そして、多くの場合に定量的になっている。しかしイギリスでは、シルヴィア・クロウ(ランドスケープアーキテクトであり、陸軍退役軍人でもある)によって、ランドスケープアーキテクトたちがこの戦後の時代に取り入れられる環境哲学を発達させていた。アメリカより早く環境良心の萌芽がみられる。彼女は『ランドスケープの道』(1960年)と『ランドスケープの力』 (1958年)という自著の中で、新しいあるいは以前は語られなかった論点と課題に言及していて、イギリスが原子力産業を引き受ける際には、土地の適切な管理と保存の必要性について明快な要請を行っている。以下がそうである。


「我々の世代は19世紀の実業家を非難する。それは彼らが多くの景観を破壊し、我々に数千エーカーもの醜く放棄された土地という遺産を残したからなのだが、しかしこれは、我々が今の行動を止め、そして我々の力の必要性と住むのに適したランドスケープの必要性とのバランスをとる方法がわからない限り、我々自身が子孫に残すであろう荒廃と比べれば何ということもないものだ。我々の先祖は、彼らが行ったこと全てはその経済結果によって正当化されると信じていた。つまり彼らの信条は、最小限のコストで生み出すことであった。本当のコストは隠されているという事実を見誤り、世代を経て、国がダメになったり人が健康を損なわれてからその正体が明らかになるだけだった。ならばこうした悲劇が今後、はるかに大きい範囲で繰り返されないようにするならば、景観という恩恵を、今度は機械と原子力時代のこれら新しい建設計画における基本要因として、考慮に入れなければならないのである。」

 

ジョン・F・ケネディの時代からイアン・マクハーグへ 1960年代〜21世紀

1960年代という時代は多くのものが変化した時代であった。我々が関心を抱くべき変化として、ジョン・F・ケネディの選挙、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』の刊行とアルド・レオポルドの『野生のうたが聞こえる』(1949年)の重要性の再評価などがあげられるが、特にケネディの選挙は、新しいリーダーシップを連邦政府にもたらすこととなった。
ケネディは内務長官にスチュワート・ユードルを指名したが、これは合衆国の土地で何がされるべきか、また、我々自身がいかにより大きな環境保全に取り組まなければならないか、ということに対して非現実的な態度を示すことになった。ケネディ大統領のカーソンの『沈黙の春』への支持がようやく、農薬の大規模使用を制御する立法を可決するよう連邦政府を動かすこととなった。

 

また、土地倫理という重要な命題を提唱したアルド・レオポルドの『野生のうたが聞こえる』*5は、次第に若い教職員が教えるランドスケープアーキテクチャーの学生たちに注目されるようになり、やがて少数の教授達も「認めるようになった」。(レオポルドは農業大学で教える森林管理官であったことから、古参のメンバーが堅守する当時のASLAでは、彼の著作を重要とは見なしていなかったので、この(教授達による)「発見(承認)」は不可欠だった。

この他、年四回発行の季刊誌『ランドスケープアーキテクチャー』が1960年に編集者の職にあったグレーディー・クレイの指示で、より環境指向の社会的雑誌へと舵取りをしたことも重要である。ハーバード大学のジャーナリスト留学プログラムであるニーマンフェローとして、クレイはデイヴィッド・ウォーレスやイアン・マクハーグと共に地理決定論と環境決定論という(当時)爽快な泉の水を飲んでいた。論説、その熱狂ぶり、激励などを通して、クレイはランドスケープアーキテクトにより幅広い環境的役割を求めるよう鼓舞することができた。
早い時点で教育的アプローチ、デザイン哲学などの重要性に気づいたのもクレイである。彼にはマクハーグの著作とフィル・ルイスの環境回廊研究がランドスケープアーキテクチャーのために重要なものと分かっていた。

 

 

*5『野生のうたが聞こえる』アルド・レオポルトは本著で、個人と個人のつながりを律する倫理を、共同社会への拡張からさらに、土壌・水・植物・動物を含む土地へと拡張することを訴える。これにより、土地と人間との関係は「被支配ー支配」の関係でなく「生物的に平等な」関係になる。これはのちの環境思想家や環境保護運動に多大な影響を与えた。環境倫理の父。

 

 

 

「職業の研究」として歴史家アル・フェインへのインタビュー (季刊『ランドスケープ・アーキテクチュア』volume 63, number 1) でクレイは、彼がこの職能を重要と考えたことに鮮烈な絵を与えている。
ランドスケープアーキテクチャーが将来を持つならば、それは公益とゴールについて多少なりとも定義可能なものの集合体でなければならない、そしてこれらは、存続して向上すべき人間社会の力を強化する環境の品質にすっかり包まれている。

 

1960年代がイアン・マクハーグの『デザイン・ウィズ・ネイチャー』の刊行とともに終わると(1969年)、アメリカは大学キャンパスや街でのデモ行進に直視し始める。それはベトナム戦争だけでなく、環境保護に対する政府介入不足にも抗議するデモで、ランディー・ヘスター(ASLA)のような若い教職員によって率いられたランドスケープ・アーキテクチュアの学生は、教育プログラムがそれまでの惰性から環境行動主義へと変化する流れを助け、環境良心がランドスケープアーキテクチャーの必要不可欠な一部である新しい時代の到来を告げた、1970年最初のアース・デイを成功させる主な原動力となった。

 

環境良心、様々な出来事やデザイン、そして、ここに記された先人たちが築きあげたランドスケープの歴史を我々は受け継いでいるのだということ、歴史には忘れてはならないものが多く潜んでいることを感じさせる。しかし、一方で、今日の多くのランドスケープアーキテクチャーのプロや学生は、環境良心はもちろん、ある意味では、思想、哲学、文化も自尊心も理想も、信念も持ち備えていない。築き上げてきた先人たちのプロセスの多くを理解できないままに現状を見過ごしている。我々の本質にも格差はあるようだ。 (了)

 

 

●イアン・L・マークハーグ (Ian・L・McHarg=1920年〜2001年)

ランドスケープアーキテクト。ペンシルバニア大学ランドスケープ・アーキテクチュア学部の創立者。
1969年に刊行された著書『デザイン・ウィズ・ネイチャー』によって、エコロジカルプランニングの概念を示す指導者の草分けとなった。この本は現在でもランドスケープ・アーキテクチュアとプランナーの間に最も広く周知されている(日本語版あり)。マクハーグはこの書籍で地理情報システムの分野を組織化する基本的な考え方を示した。

小出兼久の本棚にも紹介文あり→こちら

 

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