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緑と経済 公園と資産価値の関係文・写真:平松 宏城 05.10.5
50−100年先を見て都市に森を作った先人が残した遺産であるセントラルパークのような、町のシンボルとしての公園から街区・近隣公園といった小規模な住区基幹公園まで、公園面積はさまざまであるが、その維持管理をし必要な補修・整備を行うとき、敷地面積が広大であればあるほど行政にとっての経済的負担は大きい。緑のオープンスペースである公園は、地域の資産という宝物にもなればやっかいなお荷物にもなる。生かすも殺すも管理と運営によるといっていい。
1850年代、オームステッドたちによってニューヨークにセントラルパークが作られたとき、その周囲には瀟洒な住宅が立ち並んだ。公園のもたらす価値が確実に認識されていたわけである。それに追随するかのように、ボストン、サンフランシスコ、シカゴなどの大都市には、大規模な都市公園が作られた。1970年代、その同じセントラルパークがニューヨーク市の財政破綻によって管理も行き届かず、打ち捨てられたかのように変わり果ててしまった時期がある。民主主義の下、行政は全ての公園に最低限必要なサービスを、あまねく広く同様に提供する義務がある。この「全ての公園」に対して「同様のサービス」というところに、実は落とし穴がある。 民間にできることは民間に任せ、小さな政府を目指すというのが資本主義のモットーである。多くの公園が近隣に存在し、また、よく整備されているということは、周辺の住民や企業にとって非常に大きなメリットであると考えられるが、逆にこれだけ公園の数が増えた現在、その全てを完璧に管理するだけの予算をただひとり行政に負担させるのは、省庁間の予算配分の抜本的な変更でもない限り、相当な無理があるのも事実である。ところが、納税者である住民や企業は、公園管理費は支払った税金の中から賄うのが当然で、公園が提供するサービスは、ひところの日本の水や安全のように「ただ」だと考えている。そこに大きなギャップがある。
快適なレクレーション空間であり、安らぎや憩いの場としての公園の利益を享受するのは、主に近隣に所在する住民であり企業である。災害時の避難場所としての機能もある。彼らが、より明確に公園の価値を認識し、当事者意識をもってその価値を高めるための応分の負担を払うことは、実は妥当なことなのではないだろうか。また、公園の価値を高めることによって、長い目で見たときの公園周辺の地価上昇という資産価値の増加を、近隣住民が享受できる可能性は高いという考え方も成り立つ。個人の財産は、現預金、株・債券などの証券投資、家屋・土地などの不動産、外貨資産といった資産クラスごとに分散投資するのが定石であるといわれるが、資産運用、分散投資が目指すベンチマークはインフレである。インフレ率の上昇に負けることは、すなわち資産が目減りすることを意味するからである。これまで不動産の値付けは、主に都心に近い、駅に近いといった交通の便を優先的に考慮してきた。仕事(通勤)優先という価値判断が支配的であるため、都心部などの垂直型開発が進み、高層マンションが林立するに至っている。しかしながら公園がもたらす安全で安心、そして快適な空間が見直され、また自然災害などに対するリスクマネジメントの観点が重視された場合、不動産価値の地図は大きく塗り直される可能性があるのではないだろうか。そのように考えると、やはり公園の近隣住民や企業には、積極的にその公園の価値を高める妥当性があるといえるのである。
実は、近隣の公園をより良いものとするために資金援助をしたいと考えている層が、潜在的には多数いるのかもしれない。実際アメリカの事例でも、多くの人々にとって「公園」と「公共」は同義語であった時代もあったが、最近では民間が公園の資金負担をするケースが増えてきている。ニューヨーク市の独立予算局の調査によれば、公園のための公的支出金は1987年の218百万ドル(約240億円)から、1996年の151百万ドル(約166億円)へと31%も減少しているのに対し、同時期の民間による支出は5百万ドル(約5億5千万円)から18百万ドル(約20億円)へと3倍以上に増加している。公園の恩恵に与っている見返りとして、近隣の富裕層からの寄付や企業からの資金が「彼らの」公園のために集まっているのである。
アメリカでは現在、公園の維持管理に何らかの貢献をし、その価値を高めることに住民が参加するメカニズム作りが、一段と盛んになりつつある。そのときに行政と住民の橋渡しの役割を果たしているのが、パブリック・プライベート・パートナーシップという組織形態である。パブリック・プライベート・パートナーシップには、あくまでもボランティアが基本で管理責任を負わない形のものから、行政サイドである公園管理局の介入がほとんどなく、責任の大半を負う単独幹事(ソールマネジャー)というものまで様々な形態があるが、昨今注目を集めているのが、共同幹事(コーマネジャー)という形態である。公園局とNPOが共同で管理責任を負い、大規模改修や運営計画の策定、維持管理なども共同で行う。業務内容は契約という形で明確に規定され、各々の役割は定期的に見直されるという形式をとっており、現在のセントラルパークはこの形に属する。1970年代、市の財政危機に際して管理が行き届かず、放置されていたセントラルパークを救ったのは、まさにそのパートナーシップであった。1980年、民間の非営利組織であるセントラルパーク管理委員会が設立されてから、毎年2億ドル(約220億円)の資金を調達し、公園の改善整備のための費用に充てきた。単なる任意団体の枠を超え、日々の管理作業をも徐々に受け持つようになっただけでなく、今では年間管理費用である1670万ドルの75%を調達し、150人に及ぶ公園管理職員に給与を払う組織にまで発展している。現在、セントラルパークには年間2千万人の来訪者が訪れ、全米の公園管理者たちの羨望の的になっている。
次に、カリフォルニア州ゴールデンゲートパークを例に取って、パブリック・プライベート・パートナーシップの在り方について、より詳しく見てみたい。ゴールデンゲートパークには、現在のところ、連邦政府からの予算補助が継続的に拠出されているが、公園の運営管理の中での収益確保によって、同公園は将来的(2013年)に経済的自立を果たすことが求められている。あくまで公園全体を収益事業として活性化させない限り、経済的自立はあり得ない。その経済的自立に向けて、現在この公園の運営にあたっているのがプレシディオトラストという、官(公園管理局)と民(NPO)とのパートナーシップである。これは冷戦終結の影響で、公園に隣接するプレシディオ地区にあった陸軍駐屯所が閉鎖され、その跡地が国立公園に接収(1994年)されたことを契機に、その2年後に連邦下院議会の承認により設立されたものである。その設立根拠は、跡地に残った建物である住居、オフィスなどを賃貸・リース事業用に転用し収益に当てるという事業計画が既存の公園管理局の能力範囲を超えているというところにあった。このパートナーシップは、民間の運営能力を取り入れて委託する部分は委託するが、公園の運営基準が守られるように、官が一定限度の介在を保ちながら費用対効果を上げようという試みである。現在、上述の賃貸・リース事業の他、有料のガイド付きツアー、施設使用料の小幅値上げ、ボランティア活用による経費削減、光熱費を削減するためのガス・電力会社によるエネルギー効率化コンサルティングの採用など、会計収支の均衡と収益事業の確立へ向けて様々な取り組みが、同トラストによって始められている。
日本では、公の施設の管理は公共的団体や自治体による出資法人に限られていたが、より効率的な運営を目指した平成15年の地方自治法の一部改正をうけて、指定管理者制度が発足し、民間の法人が管理業務の代行を行えるようになった。安全であることは極めて重要なことだが、ただ安全でありさえすれば良いという呪縛のようなものから解き放たれ、斬新なアイディアや効率的な運営による費用の削減がもたらされるのであれば、大きな前進であり、そのための枠組みが整ってきたということであろう。しかし、応募者には年間管理費の支払いのキャッシュフローの時期のズレを立て替えられるだけの資本力が必要なこと、入札情報の公開性、利益活動をどこまで認めるかといった線の引き方など、まだまだ今後の課題は多い。また、同制度が機能的に稼動していくためには、やはり地域住民との密接な連携が必要となってくるはずである。その点に関しては、パブリック・プラーベート・パートナーシップという、アメリカの管理運営形態には参考にすべきものがある。また、それを評価する格付けシステムを構築することも重要である。アメリカにはその格付けシステムがある。場所の地理的特性、管理の頻度、利用度(訪問者数、使いやすさ)、設備の有無・状態(レクレーションエリア、運動場、休憩所、トイレ、舗道、道路、園内通路)、環境への配慮、住民1人辺りの公園プログラム運営予算額、周辺部からのアクセスなど、さまざまな観点から定期的に評価・格付けをしている。行政にとっては、管理や整備などといったテコ入れが必要な公園はどこなのかを特定する参考とすることができるほか、地域住民にとっては、より高い格付けを目指すモチベーションとなり、不動産価値に対して一定の影響をもつ要素ともなるのである。
公園(整備、事業)は、都市が発展する過程でその他の公共事業とは全く違う、非常に大きな影響力を、その全体的構造に対して持つものである公園は、(都市の魅力を競う意味での)都市間の競争においても大きな役割を果たす。また、人々が住宅を構える場所の選択をするときの、大きな決定要因の一つとなる
ともに、1800年代にオームステッドが言った言葉である。その意味を改めて考える時期なのではないだろうか。
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