● 2006年:兼久の独り言 ●
今年も事件、事故、災害が多かった。確かに色々なものが壊れ、時を刻んでいる。
昔「聖書の庭」を出版したとき、なぜ神は箱舟に「植物を乗せなかったのだろうか?」と考えた時期があった。このコラムを書き始めたときも、同じような気持ちがあった。多くの画家は自然に生かされ自然を観測していたのだろうと・・・そして、このコラムが生まれた。
今年は聖書にまつわる本と映画が話題になった年でもあった。映画や書籍の『ダビンチコード』、ユダの福音書の発見、さらに12月には『聖書の謎を追え』というDVDがナショナルジオグラフィック社から出た。その中の第2話に「ソドムとゴモラ」というのがある。以前、このコラムで書いた話である。→
12月10日。日本経済新聞21面の「美の美」を読んだ。「崇高なる廃墟」(中)・・・不気味さ潜む風景・・私の一番興味深い世界でもある。が、絵画は何を伝えようとしたのかという独り言とは別に、絵画に描かれている気象や自然は、確かに今の気象や環境とは違う。そのことを思うと、我々のランドスケープの真意は、やはり分岐路に立たされている気がする。今改めて絵画の気象や自然と向き合うことが、時代を超えて、ある意味で警告を受け取ることではないかとも考えている。それぞれがどう感じるかは別として・・・・・。
日経記事の抜粋
・・・人は汚いものを抑えるために奇麗とはこういうものだというモデルを見せ、ピクチャーとして額縁に押し込む。しかし、一方で汚いもの、怖いものは裏に隠れていて、何かのきっかけで表に噴き出す。それを絵として表現するのである。「廃墟の美」は、きちんと作ったものが崩壊した物理的廃櫨の美しさというよりも、「理性や合理主義によって抑圧され、隠された不合理なもの、不気味なものが、崇高な廃嘘として現れてくることではないか」と高山教授。 ピクチャレスクによって顕在化した「崇高な廃墟の美学」は十八世紀英国で終わったのではなく、現代の文化にも脈々と引き継がれている・・。
「理性や合理主義によって抑圧され」というところを、「自然は我々の多くの開発や合理主義によって抑圧され、隠された不合理なもの、不気味なものが・・・」と置き換えてみた。
芝生の間に別な植物が芽を吹く、これらは総じて汚いものである。自然は美しくあるもの、緑はこうあるべきものと、芝生に人生を語るクライアントもいる。その次には、葉が落ちるから否(あるいは汚い)と、花に虫がつくから否(あるいは汚い)という類の会話が飛び出てくる。デザイナーは困惑しながらも・・・「自然は美しいですね」と返答する。そうではないか?自然は汚さ醜さも内包するのだが、それでもやはり「自然は美しい」と言えまいか?
先日、久しぶりに京都の庭を見た。そこにはかすかな命の音が聞こえてくる。木は四季を映し文化を伝えてきた。・・・100年昔ですか・・・?と答えた。
そして町に出て行く。新しい公園の木は合理主義によって無駄がない。しかし、街も公園も100年後、命の音が伝わってくるのだろうか?それとも、我々は宣告される退廃の街の中で暮らし続けるのだろうかと・・・
独り言が多くなり始めた2006年師走である。2007年が素晴らしい年になるように祈っている。
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