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関連性と非関連性

大森茂昭(岡山支部)

 
 

一見関係のない物事が実は深く関わっていると言う事がある。例えばランドスケープの設計思想と郷土の歴史、気象、土壌。いわゆる気候風土と言うやつである。これが理解できていないと間違いなく失敗することになる。

 
 

私が郷土の歴史に興味を持ったきっかけは小学生の時のクラブ活動だった。クラブ活動は部活では無い、授業の一環として全員が参加しなければならなかった。仲の良い友人たちとクラブを選ぶとき選択肢は面白い先生が顧問をしているとこ、活動の内容が楽しそうな物。そこで活動時間中にお菓子を食べながら座談会をすると言う郷土史研究クラブに決定した。子供ゆえお菓子に釣られたのはご愛嬌、クラブが始まってみれば私と友人数名しかいない不人気クラブでした。ただし、顧問のI先生は冗談ばっかり言っている面白い人で、笑いの絶えないクラブ活動から郷土の歴史にのめり込んでいきました。ある日I先生が戦前の歴書を探しているとの事で、それは戦後焚書扱いになり殆ど残っていないとの事。祖父に聞いたところ蔵の中にあるから持って行って良いと言われ数冊の歴史書を手に入れました。その歴史書の中に吉備津彦と温羅の戦いの記述があり、未だにこの伝説を追い続けている訳です。そして岡山の気候風土を知ったうえで私の設計思想のもとにもなっています。

 
 

岡山平野を睥睨する吉備高原南端の断崖の上に鬼ノ城と呼ばれる古代山城がある。そこは神話の時代に吉備津彦命と温羅の戦いの舞台となった場所だ。後に桃太郎伝説の元になった話と言われている。桃太郎伝説は日本各地にあるが、岡山が有力候補である理由は、古くから桃の生産が行われ弥生時代の集落遺跡からも大量の桃の種が出土している。また黍団子(吉備団子)が名産品の一つでもあり県を挙げての宣伝活動の結果、岡山=桃太郎のイメージが全国的に定着したように思う。

 
 

鬼ノ城は海抜397mの鬼城山山頂部をぐるりと取り囲む延長2.8Kmもの石垣や土塁で囲まれた朝鮮式古代山城と言われている。日本書紀や古事記等の史書への記述が無い謎の山城であるが、この鬼ノ城に住んでいた温羅伝説や建築様式を見ると日本書紀に記された倭国が白村江の戦いに敗れ唐・新羅連合軍の侵攻に備え西日本の要所12か所に築城された物の一つではないかと言われている。当時岡山平野は無く、吉備の穴海と言われる水深の浅い海であり、海上航路を見下ろす城塞だった。鬼ノ城の主は温羅(うら)とその弟の王丹(おに)と呼ばれ、朝鮮半島からの渡来人(説)で製鉄技術を伝え、吉備国に繁栄をもたらした。民衆から吉備の冠者(吉備の王様)と慕われていたようだ。

 
 

植生は巨大な花崗岩の岩塊の間にアカマツ林やウラジロの群生。麓にはシリブカガシの森が多くみられる。付近の花崗岩は鉄分が多く浸食され、流れ出た砂鉄で河の色が赤錆び色をしている。麓の阿曽にはたたら製鉄遺跡が残っているが最近まで製鉄の技術は失われていた。古代そこでは砂鉄を採掘し、たたら製鉄を行っていた。たたら製鉄には火力の強い薪が必要となる。アカマツは脂を多く含み薪にはもってこい。過剰な森林伐採と砂鉄採掘により流れ出した土砂で穴海が徐々に埋まり、のちに新田干拓で岡山平野が出来てゆく事になる。 万葉に真金(鉄の意味)ふく吉備の中山と詠われるほどの製鉄王国だったことがわかる。現在でも岡山の伝統工芸品として備前長船の日本刀は有名であるが、残念なことに阿曽の玉鋼が原材料では無いようだ。刀剣センターでは出雲の玉鋼を土産物で販売していて少々がっかりしてしまった。どんな理由で阿曽の製鉄技術が失われてしまったのかは私には分からない。