フレデリック・ロー・オルムステッドの戦略術

ロバート・フランスはオルムステッドについてこう述べている。

 

……フレデリック・ロー・オルムステッドのボストンエメラルド・ネックレスは、世界の最も有名な都市型水処理湿地であり、非常に美しく設計されているが、それが人為的に構築されたシステムであると推測する人々はほとんどいない。

 

オルムステッドと言えば、アメリカで「ランドスケープの父」として認められている偉大な存在である。その作品や遍歴、残された資料について、数多くの評論や解説が残されている。日本では彼については、美しい都市公園を作ったというセントラル・パークの名声だけが注目されているようだが、冷静に考えてみれば、それだけで「ランドスケープの父」と認められるとは誰も思わないだろう。オルムステッドは、ランドスケープアーキテクチャーという職能に求められるのは、技術だけでなく、哲学、思想、歴史、プロジェクトを物にする戦略、システムであると最初に言った者である。彼がランドスケープへの統合を目指した様々な事柄に思いを馳せる。それにしても……オルムステッドの本当の戦略、そしてその戦略的才能を知るために彼の持つ背景を理解しようとする者はいない。

 

私は、ロバート・フランスが話してくれたオルムステッドの功績や、彼の立案プロセス、洞察力などは、我々が引き継ぐべきものと考えている。新たなる地平を見出していこうとする彼の姿勢を、ある部分では学ばなくてはならない。そのことを思えば、日本のこの時勢において、ランドスケープそのものに勢いがないことは、私に閉塞感を抱かせる。

 

あなた方は、本当のオルムステッドの戦略を知っているのだろうか?

 

 

ニューヨーク

 

 

ニューヨークでのオルムステッド

 
……仮にあなた方が都市公園を計画してつくらなければならなくなった時、なにがしかの提案をしなければならなかったとしても、1857年のフレデリック・ロー・オルムステッドをあらかじめ知っていたのならば、恐らくは誰も彼を雇うことはしなかったであろう……。

 

その時、彼は35歳。農夫でありジャーナリストであった。そして、アーキテクチャー、エンジニアリング、その他の幾つかの関連する分野の知識を持っていたが、すべて正式な教育を受けたことのない元船乗りであった。今そのことを知るひとは、どれだけいるのだろうか?

 

オルムステッドは、技術的専門知識を持たなかった。端的に言えば、彼は、ある種の強いリーダーシップの才能を持っていたというだけだった。しかしその才能は、レオナルド・バスケスによると、当時、彼に成功するきっかけを与え、彼が成功するのを助けた人たちによって補佐されたと記されている。

 

2008年は、セントラル・パークを作るという裁定が下されてから150周年記念の年である。セントラル・パークは、オルムステッドの最初の仕事であるニューヨーク市の主要な公園であるだけでなく、計画においても、ランドスケープ・アーキテクチャーの歴史の中に、素晴らしい経歴を送り出した。そして、後に米国の至る所で造られるようになるオープンスペースのモデルにもなった。それらは、まさにオルムステッド物語の輝きを引き継ぐものなのである。オルムステッドは、当時、農場経営者としては苦闘し、ライターとしては売れず、スタテンアイランド(STATEN ISLAND*)の僻地では失敗した実業家という人間であったが、その彼が、マンハッタンのエリートの後押しによって、彼らの都市のエメラルドオープンスペースの監督者になるのを実現させた。このことは、あまりにハリウッド的夢物語に聞こえる。しかし、それは実際に必然的なものであり、我々が成功するための方法として、いくつかの教訓を提供している話でもあった。

 

レオナルド・ダ・ヴィンチやトマス・ジェファーソンと同様に、オルムステッドは、多彩な才能の持ち主であった。彼の周囲には、影響力のある人脈を持った建築関係の人々がおり、そうした有力者と関係を築けることもひとつの才能であった。オルムステッドは、コネチカットで平凡な家庭に生まれ、彼が今日のニューヨーク市のスタテンアイランド行政区に引っ越した頃は、余所者であった。彼はそこで農場を買うと、農民のための小さなクラブを創設したが、これがリッチモンド郡農業組合であり、彼はその組合の代表を務めた。そして、オルムステッドは、手紙や声明を地元の出版社で出版させることによって、彼という人間の社会への露出を増やしていこうとする。

 

しかしそんな農業生活も上手くはいかず、逆に抑圧されているのを知り、オムステッドとその兄弟は、イングランドの都市を探検しようと試みた。そこで、彼はハートフォード・カラントのために2、3の記事を書く機会を得て、ジャーナリストとライターとしての道を歩き始めたのである。

 

そして1857年に、オルムステッドは本を書きつつも、セントラル・パークをどうするかを決める初の監督者を指名するために選出された委員会のメンバーに会うことになる。オルムステッドは、そのメンバーに、こういう公園の価値について熱心に話し、そしてそのメンバーは、オルムステッドに監督者の仕事を求めるよう誘ってくれた。オルムステッドがこの委員に会ったのは、まぎれもなく幸運な出来事だったろう。しかし、オルムステッドがその後にしたことは、戦略的だった。彼は、自分の立候補を支持してもらえるよう、そのメンバーのネットワークに接触しようとしたのである。

 

『自らの活動が、近年彼を著名で各種の責任ある地位の人々と接触させたので』と、オルムステッドの伝記作者であるローラ・ウッド・ローパーは言っている。そしてさらに次のように続けた。『オルムステッドがスポンサーの票を取り付けるのは、難しいことではなかった。』このかいあってか、8対1の投票結果によって、オルムステッドは公園の創設を管理する監督者に選ばれた。

 

*スタテンアイランドはニューヨーク湾の入口に位置し、北はマンハッタン、東はブルックリン、西はニュージャージー州と隣接している。地理上は「島」であるが、地学上はハドソン川の一支流によって内陸と隔てられてしまったニュージャージー州側の土地の一部である。スタテンアイランドはニューヨーク市の行政区の一つだが、他の四つの行政区と同様にそれ自体で郡をなしており、これをリッチモンド郡という。その名称は、1975年までここの行政区名が「リッチモンド」だったことに由来する。

 

 

策を弄する

 

オルムステッドは、自身が自分のための良い運動員ということを証明した次には、優れた政治的手腕を証明しなければならなかった。当時のニューヨーク市は、タマニーホール(派:ウィキペディア参照)支配集団(民主党の一部)によって運営されていたが、ニューヨーク州議会は公園の管理をニューヨーク市から取り上げた後、それを、ほとんど共和党員から構成されていた委員会に与えていた。監督者としてのオルムステッドは、委員会がタマニー派の手中であった頃に選ばれたチーフエンジニアのEGBERT VIELEの監督下にあり、労働者の多くは後援任務として雇われて、公園建築でなく選挙で助けるためにそこにいるという状況であった。オルムステッドにとって、決して働きやすい職場であったとは思われない。しかし彼は、一生懸命に現場で働き、従業員のあざけりや冗談にも厚顔で通した。そして、委員会が労働者を解雇して経済不況の時期に失業者の怒りを静めるために新しい人を雇ったとき、この機会を使って、有能な労働者をつかまえるようにした。委員会が監督者を選出した後には、公園設計のコンペが開かれた。

 

オルムステッドは、建築家カルバート・ボーに競技に参加するために彼に協力するように誘われた。このとき、オルムステッドは政略的に賢く、VIELEが反対するかどうか判断するためにしばらく様子を見たという。VIELEは反対しなかった。ボーとオルムステッドは、グリーンスウォード(それがのちにセントラル・パークになった)と呼ばれる設計を共同で発達させた。勝利を得た設計はいかなる個人もクレジットを書いてなかったので、誰の手がどこに寄与したのか、それは明白でなかった。これはオルムステッドの成功のもう一つの要因である。

 

彼は個人としては野心的であったが、それ以上にチームワークを熟知していており、時として個の合計よりも全体のほうが重要なことがあり、まさに今がその時であることを正確に理解していたのである。

 

 

反省的実践者

 

我々は今日、オルムステッドを反省的実践者と考える。我々は彼の仕事についてより深い質問をし、より多くの現状についてもっと学びたいと思う。彼は公園計画を越えて、公衆衛生とコミュニティー計画を見つめていた。もしオルムステッドが人々と関係を築けず、コミュニケーション技術がなく、反省的実践者でもなかったならば、彼は単に人々に、南ニューヨーク州の地方村落で一人奮闘する農夫として、記憶されていただろう。

 

『彼の履歴には、自らの農場の賃金を作れなかった農夫としても、評判だけを作った作家としても、彼の能力を示唆するも破産してしまった出版社のことも、何も記されていない』と、ローパーは言う。

 

しかしオルムステッドは、『複雑な問題を把握する展望、それらを分析する鋭敏さ、全体と細部の釣り合いをとって見せるバランスの良さ、解決を導くための学問と想像力』を持っていたのだ。

 

オルムステッドの戦略から導きだされる、我々の実践と職に対する教訓とは何だろうか?

 

  • 参加して人と知り合いになること。
    それは、都市設計委員会の会合に参加することと、長期的なレポートにおけるもう一つの人口統計学的な席を先鋭化することなどの選択である。
  • リーダーシップ技術を構築すること。
    オルムステッドは、まさに、政治現実に押しつぶされたもうひとりの、才能のある思想家であったはずである。オルムステッドは、スマートであることはそれだけで決して十分ではないということを知っていた。
  • 思慮深くて深い質問を探求すること。
    何をするか、どうするかではなく、自分自身に「なぜするのか」「なぜしないのか」「それをすると何が起こるのか?」という問いかけをする。
  • 様々な人々から多様な意見を受け入れること。

 

オルムステッドの戦略と仕事について、多くの本と研究者がいる。創造者フレデリック・ロー・オムステッドから、学ぶべき事は沢山ある。あなたも探してみてはいかがだろうか。