Vol.193「ガーデニングの基礎:自然は庭を嫌う」保存版

住宅所有者および園芸家は、環境問題の重要性を認識するために、「生態学的造園(ecological land­scaping)」という用語を使用する。残念ながら、それらの意識は意味論の領域には及ばない。

「生態学的造園」という言葉は、その流行語のような人気にもかかわらず、主に「生態学:ecology」という言葉自体に2つの異なる意味があるため、あやふやである。園芸の分野では、生態学は一般的に「伝統的」技術(基本的に「green」と呼ばれる)よりも破壊的でない、汚染的な、またはエネルギーを消費する景観保全技術を指す。生物学的観点からは、生態系の開発と機能について学ぶ。

人々が異なる言葉で同じ言葉を使うという事実は、園芸のさまざまな側面を扱う人々の間で大きなコミュニケーション上の問題を引き起こしている(特に日本の中で)。このようなコミュニケーションの隙間を埋めるために、この短いブログでは、その正確な意味を気にすることなく、文献に別種されている他の重要な言葉や概念を紹介しておく。

庭師は「自然な」植物組織の研究から多くのことを学ぶことができるが、どれくらいの人が比較を行うことができるかには明確な限界がある。継承の概念は実例である。

管理されていない景観では、特定の土地に植物や動物の共同体の発展につながるプロセスは予測できない。特定の時点でのコミュニティの見かけの安定性は幻想になる。現実は予期せぬ雑音によって引き起こされる構成の変化が進行中である。

対照的に、設計された景観は、通常、一定の位置に割り当てられた限られた数の植物からなる。様々な種間での動的相互作用の余地はほとんどなく、デザインの追加や削除の規定もない。 ほとんどの風景は、設置時に支配的な条件が予見可能な将来にはほとんど変わらないという前提に基づいている。

ガーデニングは本質的に人為的なものであり、特定の審美的な効果を生み出すための連続的なプロセスを支配し、無視することさえあるが、生態学は、生存の原則に基づいて植物の継承を制御する自然選択に関するものである。

生態学(エコロジー)と継承のコンセプトに密接に関連し、同様にあやふやなものは、「雑草」のコンセプトである。どの植物を栽培し、根絶するかは、庭師が直面する最も基本的な問題の1つとなる。 園芸の観点から、雑草の概念は相対的であり、景観の目的の機能であるが、雑草は、庭師が望まない植物となる。 生物学的な観点からは、雑草のようなものはない。 最も近い等価物は開発地または初期の連続的な植物であり、土地が何らかの形で崩壊して生存することを必要とする。

この非常に簡単な生態系造園に関する最後の要素は、撹乱(すなわち、環境変化)が、管理されているだけでなく管理されているすべての植物群落の開発および構造を形成する上で果たす重要な役割に関する。

風、火、氷、水を含む「自然な」外乱周期の一部であるものと、人為的な外乱として知られている人間の活動の副産物であるものの2つの基本的な外乱カテゴリーが認められる。

最も広い意味では、この後者のカテゴリーには、酸性雨、大気汚染、道路塩、肥料流出などのあらゆる種類の汚染の潜在的な影響と、通常の栄養塩、火災を変える生態系管理プログラムの大規模な影響、または与えられた領域の水循環を含む。地球温暖化の問題は、エコロジー、継承、雑草、撹乱という言葉の異なる意味は、導入された種の議論のある問題を人々が見ているさまざまな方法で演出する。

環境学者の観点から見ると、外来種は、一般に、自然の生息地に侵入し、原生植物を置換する破壊的な要素として見られる。生物学的な観点から、外来植物の「侵略」は、その原因ではなく人間が誘発する環境劣化の症状とみなすことができる。侵略的種は、その出生率にかかわらず、通常、既存の植物群落が自然または人為的な環境擾乱によって不安定化されたときに起こる混乱を利用する広範な生態学的振幅(適応性)を示す。

今日の生活では非常に多くのことがそうであるように、絶え間なく拡大する人口は本当の問題である。

そうであってもいなくても、世界は絶えず変化している。将来の森林や畑は、今日私たちの周りに見られるものとはかなり異なって見える。

グローバリゼーションは、私たちの経済を引き継いだのと同じように、環境を引き継いだようだ。我々は庭園の維持をやめ、風、雪、氷、干ばつ、洪水、雑草、害虫、病気の荒廃が、想像もできないものに変身している。基本的に「自然の」庭のようなものはありえない。私達がそれを否定したいと思うように、自然は庭を酷使する。

 

最後になるが、庭はプロセスではなく製品であるため、我々は庭で自然を模倣することはできない。私たちができることは、いくつかの基本原則に固執することである。正しい場所に適切な植物を作る。長期的に一貫したメンテナンスを実践する。そして最も重要なのは、なぜ私たちが庭を育てているのか、それを将来どのように見たいのかを知ることである。確かに、未来を視覚化できることは、私たちが現在の庭で働くことができる唯一のものである。

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Kanehisa.Koide について

2005年55歳の春、東京の街を離れた。 人間の利害関係は、特に目先の欲にかけては、それこそすばしっこい者が多いが、自分を大成するのに役立つ貴重な問題を捕えたり、自分に潜在している大切な能力を発揮する段になると、案外鈍な者のように振る舞うが二枚舌を持つ。 時々見かける人物で、朝起きて新聞を見ても、さほど深刻でないニュースの活字が並ぶ記事を特に珍しくもないスキャンダルや政治家の揚げ足取りには我先にとお題目のように唱える。ついでに汚職に賄賂は、傲慢な企業と政治家の特権と問題をすり替える。どこにいても、隣近所の挨拶もせぬ社会の中で、集団では行動をとり、またすぐ引く。もっと人間の根源に関わる大切な言葉などとは程遠い社会の中で生きていく。 最近の若い者は、イベントは細目に見に行くが、親の顔はめったに見に行かない。つまらぬ「問題小説」は買いに走るが、良書を教えてもなかなか買いに行く暇がないと言う。愚劣なことには頭も体もよく働かせるが、貴重なことにはとんと怠慢なのが世の常である。 さて、今日も一日元気でいることが何より。本音で語るも、本音で生きていきたいと願い、空を見上げてお天道様と相談である。
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